紫陽花を見ると寂寞がこみ上げるのは雨の重たさが心を覆うからであって、そこに死者を重ねるからではないと思う。
寒くなると葉を落とす紫陽花は、冬の間は枯れているように見える。
どれも朴訥とした枝のようだ。地味で目にもとまらない。
けれど春の頃から急に青々とした葉っぱをつけだす。
5月ともなれば、あちらこちらで紫陽花祭りだ。
急にどうした。つい昨日まであんなに慎ましくに生きていたのに。
水を飲み、光を吸い、我こそ誰より咲き誇らんと花をつける。
そんなに花をつけなくても、幹さえあれば生きれるのだよ。
そんな風に説いたところで、命の恵みの雨は止まない。
土の下には去年の、そのまた去年の花の残骸が埋まっている。
雷の音を聞くと寒々しい気持ちになるのはその行き過ぎた暴力を理性が拒絶するからで、昔殺したあの人が甦るからではないだろう。
雷は一瞬。神の気まぐれ。青天の霹靂。
何者にも容赦なく、高すぎる身をたたえたものを焼く。そのそばにいる者も危ない。
数年前に起こった革命によって神様と人はその身分に違いがなくなった。
人はもともと神様が住んでいた国で暮らすようになる。
だから落雷なんて、フェルマーの最終定理のように人類にとって乗り越え済みの問題になる、、、はずだった。
冬になると地上から天に向かって昇る雷「雷樹」。
皮肉にも人類の遺産であるスカイツリーから、感電してくる。
どれほど生活がかわろうとも。どれほど高みに登ろうとも。
心に落ちる影の濃度は変わらない。
夏の匂いを感じると不思議なほどに安心するのはそれは子供の頃に感じた満足感の名残で、実は本当は死んでしまっているのに生きているふりをしているからではないはずだ。
四季それぞれに独特の香りはあるけれど、夏ほどその存在感を強く放つものはないのではないか。
ふいに顔を上げた刹那に夏が飛び込んで来て、脳のなかに走馬灯が巡る。
最古のすごろくは仏教を教えるためのものらしい。
今は日本地図や空想の世界とかが盤面だけど。
かきわりの空。あかって、さがって、繰り返し。
近頃は32面ダイズなんて、よくわからないものが振られるようになった。
それはいったい何物なのだ。
なんて文句を言う間もなく、丁々発止の声がかかって私の番。
仕方がないからえいやと賽を投じてみたら、恋するあの娘のお尻に当たってぶっ壊れた。
知らぬ間に風がやんだ。
そうすると夏が強く匂い始める。
原初の記憶は和室。
畳、仏壇、線香の香り。静寂に響く蝉の声。
もう生まれて何年も経つけれど、いまこの瞬間より以前の思い出はない。
何をしてたか、どこにいたのか。
子供たちがふざけてふすまを開けたり閉めたりするから、蝋燭の火がゆらめいては消えそうになって仕方ない。
でもようやく鍵のかけ方を思いたしたから。
外の世界に歩き出せる。
夢幻の外で生きられる。
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