現代人は江戸時代の人が1年で受け取っていた量に匹敵する情報を、たった1日で浴びているらしい。
そのため人によって差はあれども、情報のインプット疲れに悩んでいる人は多いんではないかなと思う。
情報化社会の立役者がインターネットなことはまず間違いない。パソコンとスマホがあれば今は何だってできて、一人ひとりの発信力、情報力、総じて個々の力はわずか10年前と比べても飛躍的に増加しただろう。
ただその一方で全体の99%以上を占める、いわゆる“普通の人”の間で妙な「格差」ができてしまったようにも感じる。
まだ幼い頃はスマホもネットもなく、連絡網とか文通とか、公衆電話とか一般的だった筆者の視点から、ちょっとだけその「格差」について書いてみることにした。
目次
ひと握りの天才と凡人だった世界
まだ呑気なこども時代のことだったし、ごく平凡なサラリーマンの両親の元に生まれたので見えなかっただけかもしれないが、世の中はずば抜けた天才でなければみんなほぼ同じだったように思う。
よほど才覚があったり家が裕福だったりしなければ、個人で仕事を立ち上げたり、大勢に向けて発信することはできず、「影響力」なんて普通の人は持ち合わせていなかった。
もちろん平凡な人たちの間でも差はあったが、細かい成績の優劣とか、逆上がりができるできないの云々など、まあドングリの背比べ。
何より大半の人間は凡人であるということを、暗黙の了解としてお互いに持っていたような気がする(大人も子供も含む)。
言うなれば天才たちの「天の領域」と、凡人たちの「地の領域」は明確に分かれていて、それぞれ棲み分けていたようなイメージを持っていた。
インターネットが世界の天地にはしごをかける
しかしインターネットが登場したことで、この世界のあちこちに「はしご」がかかってしまった。
小学生でも貧乏でもマイノリティでも、誰でも好きなように思いの丈を発信できる。
だからといって世界が天と地の区別もない、まるっと公平な場所になったようには思わず、「階層構造」になったように感じる。天才たちはそのまま上位の領域に居つつ、下の人たちの中で上下関係が大きくなったというか。
具体的に言えば凡人クラスの人達が、ネット上でのブランドやフォロワー数を身につけることで、凡人のなかでも上のカーストを目指すような傾向が出てきたんではないかと思う。
実際は凡人間の差は今までもあっただろうけど、お互いがネットで繋がっていなかったので格差が曖昧で横並びで、何だかこう俺流の幸せがあればいいじゃんみたいな風潮が強かった。
それがネット上の影響力やら経済力みたいな画一的な基準で統一されて、なんかこうビシッと整備されたような気がする。
ミクロな争いへと転換する現代
上の人が経済力や権力、発言力など富や力を平均以上に所有して、下の人を動かしたり使ったりすることは、古今東西変わらない。
インターネットの普及した現代でもそうで、上の人が下の人からお金なりエネルギーを吸い上げるような動きは見られる。
まあぶっちゃけ手段が増えて搾取しやすくなったと思う。
だからちょっとでも上位に上がろうと、様々な駆け引き、ポジショニングが行われ、凡人の間でのミクロな単位の競争が激化してしまった。
負の一面だけをアンフェアに切り取って論じるならネットワークビジネスとかネット広告はそんな働きの一例で、SNSもそのための道具になり得る。
Twitterなんかは強い人の発言力や影響力をさらに高める、集権的なシステムな感じがある。
故に普通の個人であっても強い力を持つ人が増えてきた。ものすごく俗っぽく言えばぶっ飛んだ才能があるわけでもないのに偉そうな人がやたら増えたという印象がある。
え?頭に巨大なブーメランが突き刺さっているけど抜かなくても良いのかって?大丈夫ちっとも痛くない。
情報の流れの中で弱っている人は負のスパイラルにはまる
みたいなミクロ競争が行なわれている背景もあり、現代はのほほん凡人クラスで生きるのが難しくなった感じがする。
すでに情報をもち、財力があり、自信もある強者(凡人の中の)がクリエイターとなって盛んに情報を発信して、弱い立場の人がそれを受け身に消費しながら生きるみたいな残酷な構図や流れは確かにある気がして、今は弱い立場にいる人は意識しないとその操作された情報の洪水に溺れてしまう。
もちろんそれをから有益なものを取り出し強者となるための糧にできれば良いが、あふれる情報の中で思考力やバイタリティーを奪われたり、他者と比較することで自信やモチベーションを損なうケースもある。
そんな感じで人柄はとても素敵だが、不器用さ故に世の中に冷遇されているような人を、見かけることも増えた。
これはちょっと良くないのではないかなと同じ凡人ながら感じている。
インプットを遮断せよ!
それでここからが本題。ネットからの情報(と水面下で行なわれる競争や搾取による疲労)から抜け出るためには、一度インプットを遮断するしかないと思う。できれば一切合切。
小さなアクションで言えば
- SNSを制限する
- ニュースアプリとかを見ない
- メルマガとか停止する
- オンラインサロンとかグループを抜ける
大きなアクションで言えば
- 会社をやめる
- 引っ越しする
- 人間関係を整理する
など。
人の心や脳はコンピュータの様にできていないから、情報に呑まれ続けると、予想以上に疲弊して、傷ついて、機能がおかしくなる。
極端な話をすれば、山に籠るくらいでもちょうどいいかもしれない。大丈夫、意外と死なないしなんとかなる。
これは経験上だが、一人になって外部からの余計な情報がなければ、自分がやるべきことや今に集中できる。
ぶっちゃけ生きるだけならほぼ情報とかいらない(大半の情報は何かを買わせようとする広告だから)。
そうやって頭がクリアになれば、自分が何をやりたいのか明確になってくるし、受け身に消費する側から作り出す側に回れる。
余計な情報を持ちすぎていると、頭が混乱していつまでもクリエイトする側の強者になりにくい。
幸せのハードルをリセットする
と、弱者と強者の二項対立で書いてきたが、生み出す側か消費する側か、稼いであるか稼いでいないかはさほど重要ではなくて、それよりも大切なことは「幸せ競争」から抜け出すことだと言いたい。
情報が溢れかえることの最大の問題点は、幸せのハードルが爆上がりしたことだと思っている。
幸せの条件が上がり過ぎて、好きなことを好きな人とやって、好きなだけ稼いで、人から賛辞を受けねば幸せでない、くらいまでなってしまった。
いやそれは厳しいと思いつつも、ネットにはそれを達成して幸せそうに見える人も多いから(現実はわからないが)、もっと幸せになろうと欲望が刺激される。
煽られて今より余分に幸せになろうとするから、情報や欲望に踊らされて疲弊してしまう。
SNSの発達によってその流れは加速していくような気がして、インプットの圧力からどう抜け出すかがネット社会を健全に生きるポイントであると思っている。
インプットばかりしていると誰かのフォロワーとして人生に組み込まれがちで消耗する、みたいな文章を書いてみました。まあ要約すると頭でっかちにならずに、素朴な幸せで生きようぜって話です。
最後に
NHKのドキュメンタリーに出演した養老孟司先生が、一日中寝ている愛猫を見ながらの言葉で締めくくります。
「これでいいんですよ。
どっちみちたいして変わんねぇんだから」
ー「ネコメンタリー 猫も、杓子(しゃくし)も。 NHK」より出典
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